島津家始祖忠久公は鎌倉時代の初期、文治元年(1185)島津庄の下司種(げすしき)のついで地頭職や薩摩、大隅、日向の守護職に補任(ぶにん)されました。そうしたことから惟宗姓から島津姓を称され、領国統治のため本田親恒を下し三州統一の根拠地として木牟礼(きのむれ)城を築かせ、 又建久五年(1194)には菩提寺として当寺を創建されました。

現在の木牟礼城址

 栄西禅師は備中(今の岡山県)の人で十四歳で出家し比叡山で修行されました。後に二回中国(当時は宋)に渡り臨済禅を究めて建久二年(1191)に帰国、平戸の富春院を始め、九州各地に七ヶ寺の日本最初の禅寺を創建され開山となられました。当寺もその一つです。
禅師は鎌倉幕府の庇護を受け、博多聖福寺、京都建仁寺を創建し、日本臨済宗の祖となりました。また禅師は帰国の際に茶の実を持ち帰り、我が国に茶を広められたので茶祖としても敬われています。毎年当寺でも茶業関係者による一番茶の献茶法要が行われています。

 感応寺はこのように日本の禅宗の草分けであると言えますが、内外の動乱で寺運開けず、島津家四代忠宗公、五代貞久公に至って雲山和尚を請うことで大禅堂を完成させることになります。
 雲山和尚は京都東福寺第二世圓鑑禅師の法嗣(ほっし)で、肥前(今の佐賀県)高城寺より当寺に入山され七堂伽藍九社十景を創建された中興の祖であり、その徳力大いなることは将軍足利尊氏公との以下の逸話を見ても明らかです。

室町時代暦応二年(1339)島津五代貞久公が上京し、時の将軍足利尊氏公に謁見した際、尊氏公から「薩摩には社会に役立つ道場及び人材があるか」と問われ、貞久公は「感應寺に雲山あり」と答えられました。尊氏公は使者をくだし、その由来と宗風を問われましたが、和尚はこれに答ぜず一偈をもって表示されました。

尊氏公はこれを見て感嘆され和歌を贈られました。

 さぞなげに 都の遠き 山の端に 
  曇らぬ月の ひとりすむらむ

室町幕府は当寺に特別の庇護を下し、足利尊氏公は諸山十刹に列し義満公は足利家の祈祷寺にされました。その後天文十年の大火、豊臣秀吉の寺領取り上げなどで苦難の寺院経営でしたが、藩主の援助を得、法灯を守りました。

 明治二年廃仏毀釈の法難は県内全ての仏教寺院を襲い、当寺もついに廃寺となりましたが、当時の住職梅嶺和尚は還俗しながらも道心堅固に忍ばれ、また本尊・脇立四天王、幾つかの 絵画は甕に入れて隠されたことで難を逃れました。
当時の野田郷士の力添えもあり、明治十三年に臨済宗相国寺末として再興されましたが、
それでも廃仏毀釈の崩壊は大きく寺院の護持は誠に多難でありました。
 しかし三十五代真光和尚、三十六代恵徳和尚の徳化と熱意が実り、また檀信徒の外護により
昭和四十六年には本堂、昭和五十五年には鐘楼が再建され、また平成六年(1994)には
創建八百年の記念事業として仏像・仏画の修復、書院庫裏の再建が行われました。

江戸時代後期の感應寺(三国名勝図会より)
令和 現在の伽藍